書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

『三国志演義』の終盤について

 翻訳小説を読むかたわら、『三国志演義』の原書を、孔明の南蛮征伐のあたりからちくちく読み進めたりしていた。
 で、ひとつ思ったのは、私はもうこの小説に冷静な評価をくだせそうにない、ということ。なにしろ思い入れが強すぎる。その一方、内容をほとんど覚えてしまって、かえって細部に注意を払って読めなかった。
 もうひとつ感じたのは、孔明が死んだところで読むのをやめてしまう三国ファンは大きな損をしている、ということだ。魏の司馬昭曹操を彷彿とさせるやり方で権力を握っていく様子、姜維トウ艾・鐘会という三国最後を彩る名将たちの凄惨な最期、司馬昭にからかわれる劉禅の滑稽、そして『演義』最後の会話シーン――天下を統一した司馬炎と、司馬一族の腹心として謀略の限りを尽くした賈充が、あの暴君・孫皓に鮮やかに切り返される――これに胸がすくことといったら!
 しかし何より、読者の心に響くのは、この文章だと思う。

のち、後漢皇帝・劉禅は晋の太康七年に世を去り、魏主・曹奐は太康元年に世を去り、呉主・孫皓は太康四年に世を去り、それぞれ天寿を全うした。

 この単純な文章! この文章が意味していることは、なんのことはない、平凡な三人の男が(孫皓は平凡とはいいにくいかもしれないが)、平穏に死んだというだけのこと。――でも彼らの父親はどうだったか? 祖父は?
 この文章の前には、百二十回分の積み重ねが、つまり、累々たる無残な屍骸の積み重ねがある。彼らの父祖を代表とする、数百人の英雄の死と、彼らの死とを見比べたとき――なんなんだろうね、この不思議な感興は?

 まったく単純な文章で、まこと複雑な感動をもよおさせる――三人の皇帝の平穏な死という『三国志演義』の幕引きは、きわめて見事なものであると私は思う。主役が退場したからといって、この巨編に幕引きまでつきあわないのは、たいそうもったいないことではないか。