書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

盧仝「思う所有り」

 今はガルシア・マルケスの『迷宮の将軍』とアラバールの『戦場のピクニック』を読んでいるところ。

 さて、たまには訳詩でも載せてみよう。きっと誤訳だらけなので有識者の指摘求む。

 「有所思」
かの時、我は乙女の家に酔いたり
乙女のかんばせ あてなること花のごとし
今や乙女は我を棄てて去り
楼台の玉すだれは天のかなた
天のかなたには清らなる女神の月
もちづき、いざよい、満ちてまた欠く
緑の黒髪に生きながらにして別離し
眺めやりて見えず、心は絶たる
心は絶たれ
幾千里を遠ざかり
夢のうちに酔うて、巫山の雲に寝ぬ
覚ゆ、涙の湘江の水に滴るを
湘江の両岸に花と木は深く
乙女の姿はなく、心は沈めり
沈みたる心に琴をつまびけば
調べは高くして弦は断ち切れ、知音の人なし
乙女や乙女や
夜雨を知らずして朝の雲を抱きたり
片恋の一夜のうちに梅の花開き
忽然として窓辺に至る、こは君なるか

ちょっと頑張って文語もどきの訳文にしてみた。
第三句「今や乙女は我を棄てて去り」(原文:今日美人棄我去)は名句ですな。笑える。
六句目の「もちづき、いざよい」は原文では三五、二八。三かける五は十五、二かける八は十六で、これは月齢を示すとともに、乙女の年齢をも示している。当時は数え年なので、今なら十四歳。つまり、女子中学生万歳ってとこ(ぉぃ)。
十八句目の夜雨と朝雲――これはやらしい意味だろうなあ。雲雨というのが性交の暗喩だということは知っている人も多いと思う。ここでは、夜に恋人といちゃいちゃできなかったので、朝になったら夢せ……げほごほ、の意味じゃないかと勘ぐってるんだが、深読みしすぎか。