書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

莫言『転生夢現』全2巻

転生夢現〈上〉

転生夢現〈上〉

転生夢現 下 (2)

転生夢現 下 (2)

「大王さま、揚がりました」
 わしは自分がカリカリに揚げられて、ちょっぴりでも叩かれようものなら粉々になるのがわかっておった。高い大殿のまぶしい光の中から、閻魔大王のからかい気味のお訊ねが降ってきた。
「西門鬧よ、まだ文句を言うか?」
 じつのところ、その時わしは、一瞬たしかにぐらついた。わしは油だまりの中に焦げ焦げになって這いつくばっておったのじゃぞ。皮膚はパチパチと弾ける音を立てておった。(……)どうとでもなれ、とわしは思うた。やつらの石臼で粉々にされようと、鉄臼で肉醤に搗かれようと、無実を叫んでやる。
「無実でございます!」(上巻、12ページ)

 土地改革で銃殺された地主・西門鬧は、その怨恨からロバ、牛、豚、犬、猿と転生し、1950年から2000年までの中国山東省の現実をつぶさに見る。2000年に至って、彼はかつての西門鬧の作男・藍臉の曾孫・藍千歳に転生し、藍臉の子で藍千歳にとっては祖父にあたる藍解放に、転生を続ける中で体験した数々の奇怪な出来事と、西門鬧や藍臉にまつわる人々のたどった数奇な運命を語って聞かせる。

 莫言の最長の作品にして、おそらくはこれまでの最高傑作。
 浮沈激しく、悲喜こもごもの展開に、幾度腹を抱えてひっくり返り、また目頭を熱くしたか分からない。諧謔精神をもって描かれる奇人・変人たちの行状は、なんと醜く、また愛しいことか。語り口はいつもに比べいっそう力強さを増していて、時には繊細ささえ備えている。
 物語を叙述する筆運びはまったく変幻自在、悲劇から喜劇に、喜劇から悲劇にと切り替わり、なかなか油断できない。たとえば第三部のはじめのほう、

「(……)汝を遠い国に転生させてつかわそう。(……)汝の父親はいま三十六歳、その国でいちばん若い市長じゃ。母親は優しく美しい歌姫で、何度も国際的グランプリを手にしておる。(……)汝のお父の車はアウディー、お母の車はクラウン、汝のはベンツじゃ。」(上巻、317ページ)

 こっちは第二部の悲劇的な結末を読んだばかりで、目は乾かぬまま、胸は熱いまま、緊張は解けぬままだというのに、もうこんな文章を読まされるのである。
 このあと西門鬧は、市長の息子どころか豚に転生させられるのだが、この転生豚の生涯などは、豚という種族のせいか、小説各部のうち特にコミカルな場面の多い個所だと思う。が、それでも、英雄的悲劇的な場面や、幻想的で美しい場面もたくさんある。たとえば、毛沢東が死んだ夜、転生豚が殺人を犯し、飼育場を脱走するところ。

 流れを下るわしらを迎えたのは旧暦八月十六日の月だったが、あんたたちの結婚した夜のそれとはまったく違っていた。(……)甘く憂わしげだったあの夜の月は、もっぱらあんたたちの婚礼のためにやってきたのだったが、悲壮にして寂しげなこの夜の月はもっぱら逝った毛沢東のためにやって来たのだ。わしらには月に乗った毛沢東が見えた――肥った躰のせいで月はひしゃげていた――赤旗を羽織って、指にはタバコを狭んでいる。
 小花を背負ったわしは流れに乗って月を追い、毛沢東を追った。月に近づけば、それだけ毛沢東の顔がよく見えると思ったが、こっちが進めば月も進む。躰を水面にぴったり貼りつけて滑る魚雷のような速さを求めてどれほど力を入れて水を掻いても、月との距離は終始変わらなかった。(……)
 月を追っているのはわしと小花だけではないと気がついた。この大河では、金色の鯉、背の青いウナギ、丸いスッポンなど……あまたの水族の群れが月を追っていたのだ。(……)水族たちがどれほどそれぞれの特技を活かして追いかけようと、月との距離にはなんらの変化もなかった。(下巻、88ページ)

 このあたりの描写は読んでいて息を呑んだ。
 結末近くの西門鬧と閻魔大王の最後の会話や、結末の藍千歳の言葉を読んだときの感動は、こういう良質な大河小説を読むことでしか味わえないものだろう。
 何を措いても読むべき最高傑作であり、読まないのは現代に生きている利を捨ててしまうようなもの。買ってない人は今すぐ本屋へ。