書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

『ハインリヒ・マン短篇集3 後期篇』

ハインリヒ・マン短篇集〈第3巻〉後期篇―ハデスからの帰還

ハインリヒ・マン短篇集〈第3巻〉後期篇―ハデスからの帰還

グレートヒェンは起き上がって、彼に手紙を書いた。今日にでもあなたにお会いしたいという気持ちを押さえることができません。あなたはわかってくれますね。<どこで会うことにしよう?>と彼女は考えた。戸外でひと気のないところでなければ。そう、あの場所ほどぴったりなところはないわ。それに美しい記憶をともなう場所でもあるし。彼が話すあの声がまた響いてきた。「お嬢さん、そちらは女性用ではありませんよ」そこで、彼女は書いた。
「また、あの公衆トイレのところで」(「グレートヒェン」、33ページ)

 ハインリヒ・マンの壮年時代から晩年にかけて書かれた短編を集めた本。初期篇、中期篇と比べると期間がずいぶん長いが、ハインリヒ・マンは壮年時代以降には長編小説を中心に執筆しており、短編作品の数が少ないためらしい。収録作品は「グレートヒェン」「罪なき女」「ハデスからの帰還」「裏切り者たち」「死せる女」「コーベス」「フェリーツィタス」「子供」の八篇。

 一月に一冊ずつ読んできた『ハインリヒ・マン短篇集』もこれで読了。この巻も面白いということはいうまでもない。歳をとって衰えるどころかますます冴える一方のハインリヒ・マンの筆致を、存分に味わえ楽しめる一冊。
 婚約者に満足せず、俳優に恋する良家の娘を描いた「グレートヒェン」では、娘の発言のラディカルさと、夢見る乙女のような甘ったるい行動とのミスマッチがなんともユーモラス。「罪なき女」は殺人をめぐる緊張に満ちた対話で読ませる。「コーベス」は第一次大戦後のドイツの状況を風刺した作品だが、エミール・ゾラばりの熱狂的な群集の描写と、彼らに神のごとく仰がれているコーベスの存在感、そしてそれをひっくり返そうとたくらむ主人公の反逆、と迫力がありつつも非常に異様な感触の短編になっていて、傑作だと思う。「子供」は小説というより回想記ふうな感じで、「コーベス」などとはうってかわった繊細な書きぶりになっている。

 『短篇集』3巻、どの巻もたいへん面白かった。『ウンラート教授』ともどもお薦めしたい。
 今後もハインリヒ・マンの未訳作品の翻訳・出版が続くことを希望する。