書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

金庸『鹿鼎記』全八巻

鹿鼎記 1 少年康熙帝

鹿鼎記 1 少年康熙帝

「刀で殺すのも石灰で殺すのも、殺しは殺しじゃねえか。上品も下品もあるかい。くそがきのおいらが下種な手で助けなかったら、くそおやじのあんたはとっくにお上品な死人になってたんだ。(一巻、58ページ)

 揚州の遊郭生まれの少年・韋小宝は、侠客茅十八を助けた縁で、茅とともに北京へ行く。北京でいざこざを起こした二人は、怪老人・海大富に捕らえられ、清の王宮に連行される。海を薬で盛りつぶして失明させた韋小宝は、海の側近の少年宦官に成りすます。そして韋小宝は少年皇帝・康熙帝に出会う。康熙帝は先々代ホンタイジ時代からの臣下・オーバイの専横に悩まされていた。二人はオーバイ抹殺を謀る。
 オーバイを捕らえ、重臣の康親王のもとに監禁した康熙帝だが、心は休まらない。韋小宝はオーバイ暗殺に向かう。暗殺はしおおせたものの、たまたま同時にオーバイを狙って康親王のもとを襲った反清組織・天地会の者たちにさらわれてしまう。成り行きで天地会の幹部に納まった韋小宝は、二足の草鞋で危ない橋を渡っていくことになる。

 金庸最後の作品。これまでの作品とは趣向を変えて、どちらかといえば品性下劣な男を主人公にもってきている。武芸はろくにできないし修行もしない。好きなものといえば女に財産。といっても己の身が危うくなれば、女は見捨ててさっさと逃げようと算段する。特技はおべっか、法螺にいかさま賭博。必殺技は目潰しと、不意をついて背後からナイフで一撃。気風はいいし友人は大事にするが、一番大切なのはわが身であってそこは終始変わらない。難局に出会えば、運と機転と口舌、それにオーバイの屋敷から横領した秘密アイテムでなんとかしてしまう。
 主人公がこういうやつだから、脇役も善玉悪玉とも小者っぽいのが多い。たとえば神龍教の教主洪安通(邪教の教主、というのは、金庸小説の悪玉のボスとしてよく登場する)なんかは、武術なら多分作中最強なんだろうけれども、手下はまとめきれていないし、若妻にはめろめろである。たとえば『笑傲江湖』の東方不敗や任我行なんかには悪のカリスマみたいなものがあったが、洪安通にはまるでない。少林寺の澄観は、少林寺の武芸にも他派の武芸にも通暁した達人だが、頭が硬くて韋小宝のでたらめな発言にいちいち感心して道化っぷりを披露する。清に背く立場の連中は、それぞれ腕が立ち義気もあるけれど、ことあるたびに反目しあっていて、これでは清を倒すどころではない。清の重臣たちは、仕事はちゃんとやるけれども、賄賂や横領にもぬかりがない。大物らしく描いてあるのは、康熙帝に天地会の総舵手・陳近南くらいか。しかし康熙帝も朝廷での職務に鬱憤をためているし、陳近南は融通がきかないところがあって、彼らも円満な心情に至ることはできない。
 善玉悪玉そろって韋小宝のごとき小人に翻弄されるのが、なかなか愉快痛快でもあり、これでいいのかと不安でもあり。不安というのは、この作品に登場する善悪さまざまな人物は、今まで金庸が描いてきた類型をなぞっているところが多いように思うが、それらの人物がろくでもない韋小宝なんぞにかき回されるのは、まるで築き上げてきたこれまでの作品を否定するかのような感じがするので……金庸が大成した「武侠小説」というスタイルを、金庸みずからぶち壊した作品と言ってもいいかと思う。
 それだけのパワーがあるわけで。
 文庫版が出始めたので、従来からの金庸ファンなら読むべきだし、二三冊読んで飽きた人にも読んでみてほしいと思う。初読者は……さあ、どうだろう? 『碧血剣』の人物が再登場したり、ほかにも令狐冲や欧陽鋒の名前が見えたりするが、特に知らなくても話を追うのに差し支えはないように思える(私も『碧血剣』の内容はほとんど覚えていない)。
 ついでながら、本書には建寧公主という、非常に印象的な女性キャラが登場することも言い添えておきたい。全体的に女性キャラの描き分けは拙い感じがするけれども、この姫さまだけは別である。