書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

蔡萬植『太平天下』

太平天下 (朝鮮近代文学選集)

太平天下 (朝鮮近代文学選集)

 長編「太平天下」と短編「レディメイド人生」「民族の罪人」を収める。舞台は日本占領下、太平洋戦争前夜のソウル。故郷で財をつくってソウルに移り住んだ尹斗燮一家。尹斗燮は高利貸しをして財を増やしつつ、嫁や孫嫁たちと吝嗇な生活をし、一方すでに家を離れた息子尹昌植や孫の鐘秀は、斗燮にたかって遊蕩三昧。だがそこへ、東京で学んでいる孫の鐘学について知らせが届く。

 主役の尹斗燮は方言まるだし、地の文はパンソリ(語り物)調の饒舌体で書かれているらしい。この翻訳では尹斗燮の言葉は関西弁、地の文は講談調になっている。割注脚注だらけ(風俗描写が細かいため注の参照は不可欠)のまじめな翻訳文学っぽい体裁と、文体とのギャップが妙におかしい。解説にも大真面目に「翻訳のために桂米朝を聴き直した」などと書いてある。
 尹斗燮の、いっそ気持ちいいくらいの俗物っぷりが魅力で、このキャラが関西弁で吐き散らす暴言と、反語だらけの醒めて馬鹿丁寧な地の文との掛け合いがいい味出している。ひ孫と同い年の息子を作っているこのパワフルな独尊老人が、お気に入りの童妓(15歳)の前では良いように弄ばれたりしているのも笑いどころ。まったくかわいらしい変態ぶりである。
 この一家ならこの三倍くらい(「太平天下」は300ページくらいの作品)の分量の小説を書けそうだが、いろんな伏線を放り出して唐突に終わっているのは不思議なところ。

 「レディメイド人生」は、大学を出たものの就職口がなく困窮する主人公の話。「太平天下」の尹昌植や尹鐘秀は数千円使って豪遊しているのに、こちらは五円、十円の工面に苦労している。格差なんてレベルじゃねーぞである。

 インテリ……。インテリの中でも特に何ら手に技術が無く、大学や専門学校の卒業証書一枚、または小さな普通の常識を持った職業のないインテリ……。毎年千人あまりが増えていくインテリ……ひどい目にあったのは、彼らインテリである。
 ブルジョアジーのすべての機関が飽和状態となり、もう需要がないからには、彼らは結局、だまされて木に登らされて、下から揺らされているようなものである。爪弾きである。

 なんかもう、明日はわが身って感じがして笑えない。本当に笑えない。
 「民族の罪人」は唯一戦後に書かれた作品(舞台も戦後)で、戦時中に対日協力した主人公が懊悩する話。蔡萬植自身にもそういう経歴がありこれが罪の意識になっていたらしい。石を投げられた主人公が、最後に甥に向かって石を投げるように言う結末がなんだか皮肉。小説としての出来は、他二つと比べるとイマイチだと思う。同胞への裏切りということなら、『灰とダイヤモンド』などのほうが読み物としてはずっとよく出来ているかと思う。