書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

アナトール・フランス『舞姫タイス』

要するに僕はお前を羨ましい人間だと思う。なぜなら、僕たちは、パフニュスも、僕も、自分たちの本性に従って生きながら、全生涯を通じてただ一種類の満足しか追求できなかったのに、かわいいタイスよ、お前は、生涯のうちに、性質のまったく相反した悦楽を味わえるだろう。ひとりで二種類の悦楽を味わえる人などめったにあるものでない。(177ページ)

 テバイードの砂漠で二十四人の弟子を従え苦行にはげむ修道士パフニュスは、若き頽廃のころに憧れた舞姫・タイスを悔悛させようと思い立ち、久方ぶりにアレクサンドリアを訪れる。かつてキリスト教に触れたことのあるタイスはあっさりと奢侈な生活を捨て女子修道院へ入ることを選択するが、砂漠へ帰ったパフニュスはタイスの幻影への肉欲に苦しめられるようになる。

 しみじみ良い作家だと思う一方で、つくづく意地の悪い作家だなあとも思う。ローマ時代のキリスト教を扱う文学に共通の、あの大仰な書きっぷりをしてあるのだけれど、常に留保・否定的な雰囲気が漂う。

この聖なるテバイードの住民たちのうち、一部の人びとは苦行と瞑想とにその日その日を送り、また他の人びとは、棕櫚の繊維を編んで生活の糧を得たり、収穫の季節に近在の農家に雇われたりしていた。異教徒たちは、彼らの一部は剽盗を渡世にしたり、また隊商の掠奪を事とする浮浪のアラビア人たちに加担したりしていると、あらぬ濡れ衣を着せていた。だが、その実、これらの修道士たちは富を軽んじていた。そして、彼らの徳の香りは天までも立ち昇っているのだった。(6ページ)

 作者の意地の悪さは特に主人公・パフニュスの描写に表れる。この主人公の何が痛々しいといって、タイスを悔悛させようという自分の意図が純粋な信仰心から出たものだと、結末近くまで信じていることである。タイスを抱いたという旧友ニシアスにむやみに怒りを抱くのは、読者からは嫉妬なのが丸分かりなのに、本人はニシアスの不信心を憎んでいるつもりなのだ。砂漠へ帰ってから、タイスへの欲望に苦しみ幻を見るようになったパフニュスは、神にすがり、神の子であるところのイエスにすがり、自らの身を痛めつけ、理屈を並べて欲望を押さえつけようとする、ここらあたりの展開はもう哀れで哀れで、もう許してやれよと言いたくなってくる。だから最後の場面で、タイスが死に瀕していると聞いたパフニュスがコワレてしまって、狂乱のていで修道院にいる臨終のタイスのもとに駆けつけ、空気を読まずに「地上の生命と生きとし生けるものの営む恋、それだけがほんとうのものだ!」と叫ぶシーンには、むしろ爽快感や開放感を感じてしまった(もちろんこの後バッドエンドへ一直線)。
 歴史小説としては、修道士たちの異様な苦行、哲学議論のあとに唐突に自殺する哲学者、貴族の奢侈に高学歴な奴隷等々、ローマ時代のエキセントリックな風俗が短い作品の中に詰め込まれていて、雰囲気がある。