書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

ワレーリヤ・ナールビコワ『ざわめきのささやき』

ざわめきのささやき (群像社ライブラリー)

ざわめきのささやき (群像社ライブラリー)

お茶を入れに台所に立ったニ=ヴは誰かがドアを開けるのを聞いた。ドアを開けたのは、一週間留守にするはずの、でも不意に戻ってきた隣の女だった。そこで玄関に向かった彼は見た、隣の女が玄関のドアを開けて、ばんと閉じて、バッグを置いて、床にすわり込んで、死 ん だ のを。ニージン=ヴォホフがそばに寄ったとき、女はすでに死んでいた。そして彼女のそばに寄ったとき、彼は彼女がすでに死んで帰ってきたような気がした。つまり、彼女はすでに死んでドアを開けて、バッグを置いて、床にすわり込んだ。彼女はすでに死んだ状態で不意に戻ってきたのだった。だからスナンドゥーリヤのそばに行くと、彼は言った。
「なんでもないよ、死んだ隣の女が戻ってきただけさ」(24ページ)

 無名の画家ヴェーラは、飛行機でたまたま出会ったニージン=ヴォホフ(ニ=ヴ)と、その父スヴャと親しくなる。ニ=ヴが企画したヴェーラの絵画の展覧会を話の軸に、ヴェーラとニ=ヴとスヴャ、ニ=ヴの妻スナンドゥーリヤ、愛人ワシリキーサらの恋愛関係が、亡霊たちの見守る中で展開していく。

 まずはカバー見返しの紹介文を引用してみる。

言葉がはじめになければ世界は脈絡を欠いたまま消失していく。価値の下落した既成の表現は現実の線より下にさがり、騒がしい社会の公分母となっている。誰もが使う言葉の中で成立するのは水準以下の恋愛と死んだ人間関係だけだろうか。無名にして有能な画家ヴェーラが他人の死の中で偶然出会った二人の男、この父と子と彼女の三人の関係は、展覧会と性的生活と亡霊をよりあわせながら、あらかじめ定位置にいた二人の女の関係をほぐしていく――。

 ……なるほど、わからん。

 要するに錯綜した不倫関係を描いた恋愛小説であるが、その特徴は極めて個性的な文体にある。「引いては寄せる波のような」とは訳者解説の言であるが、繰り返しや比喩、逆説、法螺などの技巧を駆使した意識の流れの描写は、(集中力と想像力を要するが)とても面白く読める。この奇天烈な文体は一ページ目の一行目から炸裂しているので、本屋で見かけたら最初のページだけでも読んでみるといい。解説や例の『世界×現在×文学作家ファイル』に記されているように、官能的な文体なのかどうかはよくわからないが。
 人の死の場面がやけにあっさりしすぎて、時折シュールの領域に入り込んでいるのも奇妙なところ。引用した、急に帰ってきていきなり死んでしまうニ=ヴの隣家の女とか。で、死んだ人間たちは亡霊になって、(元は関係なかった人たちのはずなのに)なぜか家族のように行動する(といってもふらふら現れたりするだけ)。このあたりの亡霊の描写もなんかシュールで可笑しい。
 よく分からない本だが、あまり類例のない雰囲気の作品だと思うので、一読して損はないはず。