書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

夏目漱石『行人』

行人 (新潮文庫)

行人 (新潮文庫)

「二郎」と兄が漸く云った。その声には力も張もなかった。
「何です」と自分は答えた。自分の声は寧ろ驕っていた。
「もう己はお前に直の事に就いて何も聞かないよ」
「そうですか。その方が兄さんの為にも嫂さんの為にも、また御父さんの為にも好いでしょう。善良な夫になって御上げなさい。そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ」と自分は嫂を弁護するように、又兄を戒めるように云った。
「この馬鹿野郎」と兄は突然大きな声を出した。その声は恐らく下まで聞えたろうが、すぐ傍に坐っている自分には、殆ど予想外の驚きを心臓に打ち込んだ。
「お前はお父さんの子だけあって、世渡りは己より旨いかも知れないが、士人の交わりは出来ない男だ。なんで今になって直のことをお前の口などから聞こうとするものか、軽薄児め」(226ページ)

 四部からなる中篇連作。語り手の長野二郎は大阪滞在中、身体が弱いのに無理な飲酒をして入院した友人三沢から、そのとき酒の相手をしてやはり入院した茶屋の女の話と、かつて三沢家に預けられていた、精神を病んだ出戻り娘の話を聞かされる(「友達」)。やがて二郎の母と兄・一郎、その妻・直が大阪にやってきて、四人は和歌山見物に出かけるが、直の貞潔を疑う一郎は、二郎に直と二人で別の所に泊まって欲しいと頼む(「兄」)。これがきっかけで兄弟・家族の関係は冷えていき、二郎はやがて実家を出て一人暮らしを始めるようになる(「帰ってから」)。その後も兄の気塞ぎが酷いと聞き込んだ二郎は、三沢の恩人で兄の親友であるHに頼んで一郎を旅行に連れ出してもらう。Hは旅行先での一郎の様子を丁寧な手紙で報せてくる(「塵労」)。

 教科書では赤字になっていないけれども、友人のうちで読んだ人はみんな高く評価している作品だったので、読んでみた次第。代表作扱いはされてなくても、さすが漱石、ちょっとググるとたくさん感想が出てくるね。よって私は簡潔に箇条書き的に気になったところを挙げておくに留めようかと。
 書斎にこもりがちな割りに作中でも随一の激情家、という一郎のキャラ設定は面白い。物事に対し知的でかつ真摯であるがゆえに上手に世渡りができない、という彼の性格を描写することが作品の中核になっているようだが、彼の苦悩自体も、苦悩の扱われ方も、なんだか物凄くストレートで、ねじれた作品ばかり読んでいると、かえってこれで良いのかしらと不安になったりもする。
 構成の上で上手いのは挿話と一郎の煩悶との組み合わせ方だと思う。具体的には、三沢が語る精神病の女の話と、長野家の父が語る盲目の女の話。これらの女たちが一郎の琴線に触れる真剣な苦しみを抱いていたのに対し、妻の直のほうは曖然として掴みどころがない気質、二郎も一郎が問い詰めないのを良い事に(一郎から見れば)誠実に話をしようとしない。一郎はその心を動かすような話を聞くが目にはできず、目にするのは不誠実な人々ばかり、ここはこの小説の妙だろう。
 何を考えてるかわからない直の描写も冴えている。行きがかり上、旅行先で二人きりになったときに、直の所作のいちいちに戸惑う二郎の話は妙になまめかしくて、読んでいるこっちも二郎といっしょにどぎまぎしてしまう。漱石の小説を読んでいるのになぜ息をはぁはぁさせてるんだろうか?