フリオ・コルタサル『遊戯の終わり』
- 作者: コルタサル,木村榮一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2012/06/16
- メディア: 文庫
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しかし、それもこれも運がよかっただけの話だ。(「楽団」、138ページ)
運が悪かったら、別世界に取り込まれて帰って来れないということになるわけだ。
18編を収めた初期短編集。どれも短めだしあまり濃い味付けはしていない。犯罪小説を書いてもどこか上品さが漂うので、そこが物足りなく思う人もいるかもしれない。以下、いくつかの短編の感想を。
「誰も悪くない」はセーターを着るのに手間取っている男の話。狭くて暗くて湿気に満ちた場所は異界への入り口、というのは幻想小説の定型だが、なるほど確かにセーターはこの条件に合致している。そう思えばセーターの袖口が異界につながっているとしてもおかしくはない。そうはいってもその発想には意表をつかれたかな。
「いまいましいドア」は、ホテルの隣室から赤ん坊のむずがる声とそれをあやす女の声が聞こえてくる、しかし隣室の女に子供なんていないはず……という恐怖譚。隣室の光景が見えないことがかえって刺激的。
この記事の冒頭に引いた「楽団」は、映画を見に行った男が、プログラムにないはずの素人楽団の演奏を聞かされる話。冒頭に「似たような出来事がもとで亡くなったルネ・クレヴェルの思い出に」とあるが、これは自殺したシュールレアリストのルネ・クルヴェルのことか(1935年没。コルタサルがフランスへ行ったのは1951年のはずだが面識はあったのかどうか)。クルヴェルはシュルレアリスムとコミュニスムの両者に共感して板ばさみになって自殺したようだが、どのへんが似たような出来事なのだろう。
「動機」は殺人の話で、語り手は殺された友人の仇を討とうと、下手人と思しき男が乗っている船に乗り込むものの、違う動機で違う人間を殺してしまう。悪漢小説ながらあっけらかんとした語り口、笑えばいいのか呆れればいいのか。
「山椒魚」は水族館のウーパールーパーに意識が入り込んでしまう話。これは翻訳に苦言を呈するべき。原題「Axoloti」だがこれを山椒魚と訳してはまずい。同じ有尾類とはいえイメージに差があるし、そもそもウーパールーパーが幼形成熟であるとこもポイントのひとつのようだから。原題通り「アホロートル」でいくか、思い切って「ウーパールーパー」としてしまうべきだろう。ところで
山椒魚の頭、小さな金の目がついている桃色のあの三角頭が曲者なのだ。それはすべてを見、一切を知り尽くしていた。(205ページ)
という記述を見て思い出したのが、2ちゃんねるの「キモかわいい生物」というスレに貼られたイエアメガエルの写真に「このかえるは宇宙の全てを知っていそう」というレスがついていたこと。このレスをつけたvipperとコルタサルの感性には一致するところがあった模様。
表題作「遊戯の終わり」は列車の車窓越しの少年と少女の淡い恋愛譚。いや恋愛未満か。結末の切なさは一級品。不気味な小説を並べておいて最後にこういう作品を持ってくるあたりはずるいというかなんというか。