イワン・ツルゲーネフ『春の水』
- 作者: ツルゲーネフ,中村融
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1961/07/25
- メディア: 文庫
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――ほんとに、これは不思議だと思うんですけれど、――とだしぬけにマーリヤ・ニコラーエヴナが切り出した。――誰でも「わたしは結婚するつもりです」と言うときには、実に落着いた声なのに、誰も「わたしは身投げするつもりです」と落着いて言う人はいないでしょう。そのくせ――いったい、どんなちがいがあるというのでしょう? 不思議ですわ、本当に。
鬱憤がサーニンをとらえた。
――そりゃ大きなちがいですよ、マーリヤ・ニコラーエヴナさん。人によっては身投げするくらい、ちっとも恐くもありませんよ、泳ぎさえ出来る人ならね。ですがそれ以上に……結婚の不思議さということになれば……話がそこまで行ったのなら……(213ページ)
泳ぎができるつもりだったんだなあ。それがあのザマなんだから。
イタリア旅行からの帰途、フランクフルトに滞在中のサーニンは、偶然から菓子屋のイタリア人娘ヂェンマと知り合い、恋をする。いささかの曲折ののち二人は婚約を結び、サーニンは結婚資金などを調達するため領地を売ることにする。ところが、売却相手として選んだポローゾヴァ夫人と相談しているうち、サーニンはポローゾヴァの妖しい魅力に絡めとられてしまう。
ヂェンマとの恋愛の描写については、語るほどのこともない。展開も非常にゆっくりで、現代の小説に慣れてる人なら退屈しがちだと思う。旅の途中のロシア貴族と、ドイツに住まうイタリア人の菓子屋の娘という組み合わせであるのに、その身分・国籍の違いがまるっきり問題にならないところが興味深いといえば興味深いところか(ツルゲーネフは経歴からしてロシア人というより世界市民だものなあ)。
このまま平穏に愛を成就させ結婚してしまったら、あとは斧でも振り回すよりほかなくなってしまうところだけれど、ツルゲーネフはもうちょっとありえそうな破局を用意してくれている。
というわけでマーリヤ・ニコラーエヴナ、ポローゾヴァ夫人が登場してからが本番。この夫人がときに迫ったり、ときに退いたりしながらサーニンの心のうちをじわじわと侵食していくくだりはなかなかに戦慄もの。読者の私なんかも、少女趣味だったはずなのに、この夫人の魅力にはくらくらしてしまったよ。