書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

イヴォ・アンドリッチ『宰相の象の物語』

 やるか。

 このシリーズももう10年以上やってるんだなぁ。

宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)

宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)

 

  ボスニアの作家イヴォ・アンドリッチの小説集。中編「宰相の象の物語」「アニカの時代」、短編「シナンの僧院に死す」「絨毯」の四編を収める。

 

「宰相の象の物語」:新任の宰相としてトラーヴニクに赴任してきたヂェラルゥディン・パシャは、いきなりボスニアの有力者数十人を粛清して街を恐怖に陥れる。その後庁舎に引きこもって筆のコレクションをして遊んでいた宰相のかわりに、宰相が飼い始めたアフリカ象のフィルが街の人々の憎悪の対象になった。象は散歩のたびに商店街に現れてはありあまる力で場をめちゃくちゃにしていく。やがて粛清の運命は宰相自身にも降りかかり、象のフィルもまた永らえることはできなかった。

商店街の人々の憎悪は、盲目であり聾であるが、唖ではない。

 恐怖が人々に好き勝手に出鱈目に物語を語らせまくる。

 

シナンの僧院に死す」:生涯酒とタバコを遠ざけ童貞を保った老学者アリデデは、故郷の僧院で講義を始めようとして急病に倒れた。死の間際、女性にまつわるふたつの恐ろしい記憶がよみがえって彼をさいなむ。少年期、水害のさいに女性の遺体を発見したときのこと、青年期、真夜中に僧院に助けを求めに来た女性を見たときのこと、どちらも恐怖のために誰にも知らせず放置してしまったのだった。

 善であり知である(とみなされている)男が、倫理的にも理性的にも意味不明な恐怖と怠惰にとりつかれてしまったときの話。

 

「絨毯」:第二次大戦期、寡婦のカータ婆さんは、自宅がファシスト自治体に接収される予定になったので抗議のために役所を訪れる。カータは役所で立派な絨毯を見て幼少期の記憶を回想する。19世紀末、オスマンの領土だったサライェヴォはオーストリア軍の手に落ちた。一人の酔ったオーストリア兵が、トルコ人から略奪した絨毯をカータの家に持ち込み酒と交換してほしいと訴える。カータの祖母アンジャ婆さんは激怒して兵士をたたき出す。

欲しがる者には売ればいいし、良心に恥じない者が買えばいいのさ。だが、わたしの家には盗んだ物や奪い取った物は置かせないよ。誰も他人の不幸で自分の幸福を築くことはできないのだからね

 半身不随のアンジャ婆さんがめちゃくちゃかっこよくて、おかげで「シナンの僧院」のモヤモヤが吹っ飛んだ。しかし戦争と略奪は繰り返される。

 

「アニカの時代」:ドブルンの司祭ヴゥヤディンは、豪傑肌の祖父や快活な父に似ない陰気でこもりがちな人物。ある晩発狂して農家に発砲し逮捕される。人々の噂話はヴゥヤディンの祖父や曽祖父に及び、そのころ一世を風靡した娼婦アニカの時代の記憶がよみがえる。パン焼き職人の娘アニカは、家畜商の徒弟で有能なミハイロと恋仲になるが、破局に終わる。ミハイロはかつて愛人クルスティニツァがその夫を殺すのをなりゆきで手助けしたことがあり、アニカがその恐ろしい愛人と重なって見えてしまったのだった。ミハイロと決裂してから間もなくアニカは娼館を開く。客の中にはヴゥヤディンの祖父ヤクシャもいた。

 本書の中でも特に読ませる一編。やることなすこと辛辣なアニカが男どもを魅了し、その周辺の人々を混乱に陥れていくさまは圧巻。有能だが過去の罪ゆえに腰砕けになってしまうミハイロくんのほうは緻密な心理描写でこれまた読ませる。「シナンの僧院」のアリデデ師もそうだけど、肝心なとこで度胸が雲散霧消してしまう男の話がうまい。