書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

古竜『蕭十一郎』

蕭十一郎
古竜 著
珠海出版社
2009年1月

 風四娘は侠盗・蕭十一郎と手を組んで名刀・割鹿刀を盗もうと試みるが、偽物をつかまされる。二人は割鹿刀が沈家荘に送られると知り、風四娘の知人・楊開泰に頼んで沈家荘に招いてもらうが、何らかの事故があったらしく、割鹿刀は送られてこない。こっそり沈家荘を出た蕭十一郎は、護送者のうちの一番の腕利き司空曙が、なぞの少年「小公子」らに殺されるのを目にする。そして小公子らが、沈家荘の娘・沈璧君を誘拐する相談をしているのを知るのだった。

 原文で古竜を読むのは初めてだが、日本語で読もうが中国語で読もうが古竜はどこまでも古竜、という感じだ。時に単語をぽん、ぽん、ぽんと三語ばかり置いて風景描写を終わらせたり、単純な構文の句を繰り返して強調したり。たとえば風四娘の人となりを説明する文章、

 彼女はさまざまな刺激を好んだ。
 彼女は最も速い馬に乗るのを、最も高い山に登るのを、最も辛い料理を食べるのを、最も強烈な酒を飲むのを、最も鋭利な刀を扱うのを、最も凶悪な人を殺すのを好んだ!(2ページ)

 日本語のみの古竜読者でもわかっていただけると思う。これぞ古竜の文章。武侠でひとくくりにされるけれど、金庸なんかは絶対にこんなふうには書かない。この間の温瑞安なんかはけっこう古竜の影響を受けていた印象だけれど、彼もこれほどシンプルにわかりやすく、しかも印象的な文章は書いていない。
 映画化を前提とし、その脚本を先に書いていたためか、話のまとまりは(古竜にしては)だいぶまともな感じである。古竜にしては、と置いたのは、割鹿刀はいつの間にか忘れ去られているし、ヒロインかと思われた風四娘も、ちょっとの退場かと思ったら結末間際にようやく再登場したりして、密な構成、という感じでもないからである。まあ面白いので、そんなことはどうでもいい。構成より勢いのほうが大事なんだから。
 ときどき我慢しがたいくらい感傷主義に流れるきらいがあるが、古竜だし、そこはどうしようもない。
 良い意味で、いつもの古竜、そういう作品。
 構文が単純なおかげで、自分のような語学未熟な読者でもすいすい読めたのはありがたかった。中国語初学者がはじめて現代の小説に原文で挑戦しようという場合、古竜は有力な選択肢であると思う。

 うーむ、通俗小説とはいえ、やはり凡百の作家とはモノが違うわ。面白すぎる。