書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

レイナルド・アレナス『夜明け前のセレスティーノ』

 再確認。アレナスは天才だ。
 制作年代が1965年(『百年の孤独』67年以前だ!)というのも、作者がまだ22歳だったというのも凄い。もちろんそういう周辺の事情を抜きにしても、この小説自体途方もない。国書刊行会には是非とも「苦悩の五部作」の残りの四作品も翻訳出版して欲しいところ。

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)

 きのうぼくにまぬけと言ったいとこが近づいてきて、またその言葉を繰り返す。
「ちがう」とそのときぼくは言う。
「どうしてちがう?」と死んだいとこ全員がぼくに言う。
「じいちゃんを殺したいから」
 いとこたちはみんな食べるのをやめ、ぴょんと跳んで大きな素焼きの皿をつかむと、それをぼくの頭に置いた。
「おまえは冠を授かった」と言い、天井から逃げだす。「今晩、会おう」(186ページ)


 アレナスの処女作で、彼のライフワーク『苦悩の五部作』の第一部。「ぼく」のいとこのセレスティーノは詩を書こうと思い立ち、庭の木の幹に詩を書き付ける。一家から詩人が出たことを恥じる「ぼく」の母は井戸に飛び込み、祖父は詩が書かれた木を残らず斧で切り倒す――。

 破天荒きわまりない小説。死んだと思えば次の行ですでに生き返っている登場人物たち、旋舞する死んだいとこたちと魔女たちのコロス(合唱隊)、奇矯な行動をとる語り手――とキャラや道具立ても破天荒なら、繰り返しの多用(極めつけは3ページあまり「死んでた」を繰り返す個所。でも次の段落ではすでに生き返っている)、唐突に挿入されるエピグラフ古今東西文人の言葉もあれば、作中の別の個所で登場人物が吐くセリフだったりもする)、あるいは突然戯曲のかたちになったりもするし、152ページの最後には「終」の文字が記されていたりする(次のページから何事もなかったように話が再開される)ように、文体もまたほかに類例がないものだ。同じくこの作者の初期作品である『めくるめく世界』にも極めて異様なエピソードが沢山つめこまれていたが、一応、小説らしい体裁は備えていた。ところがこちら『夜明け前のセレスティーノ』は詩とも小説ともつかない、まったく新しい性質を持つ文学作品だ。
 なお、破天荒で滑稽なエピソードを連ねながらも、社会の抑圧と、それに対する抵抗、自由の希求といったものをテーマとしていることは、『めくるめく世界』と共通である。

 あまりにも斬新な作品ゆえにはじめは面食らわずにはいられないが、言葉の生み出す不思議なリズムに身を委ね、奇々怪々たるエピソードを楽しみつつ読み進めていけば、充実した読書時間を過ごすことができるはず。いちおしである。