書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

シギズムンド・クルジジャノフスキイ『瞳孔の中』

瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集

瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集

多くの人が酒もタバコもやめて、肘中毒になった。(「噛めない肘」、189ページ)

 作者クルジジャノフスキイは、近年になって「再発見」「再評価」されたソビエトロシアの小説家、シナリオライター。小説家としての活動は戦前のものだが、その仕事が単行本の形になったのはペレストロイカ以降だという。本書は五編を収める短編集で、初の邦訳。

 巻頭作「クヴァドラトゥリン」は、壁面に塗ると部屋が広くなる薬を手に入れた男の話。男の意図に反して部屋は必要以上に広がり続け、部屋の隅から隅へ移動することもままならなくなった男は、社会との交わりもうまくいかなくなり、まもなく破滅が訪れる。
 構成のきっちりした巻頭作に比べ、つかみどころがないのが二編目「しおり」。手持ちの古書の中から、かつて愛用していた栞を見つけた主人公が、栞に相応しい新しい本を探すために町に出たところ、広場のベンチで物語を語る男に出くわす。男は聞き手を引き込む魅力たっぷりな物語をいくつも語るが、それらの物語は決して結末にはたどり着かない。栞を挟んだまま忘れた本のように、奥歯に引っかかるような釈然としない読後感が残る小説(この本の感想記事をいくつかブログで読ませてもらったのだけれど、この小説への言及は少ない。みなさん言語化にてこずっているのかもしれない)。
 恋人の瞳の中に自分の小さな似姿を見つける、という発端から始まる「瞳孔の中」は、ある晩その瞳孔の中の小人が自分を訪ねてくる、という突拍子もない展開をする。主人公の分身である瞳孔の小人は、同じく彼女の瞳の奥に住まう「元カレ(の分身)」たちから聞いた話を語る。発想の奇抜さと内容の下世話さのアンバランスが肝。

「なんともあつかましい獣だ」、六号のもの問いたげな眼差しに出会い、私はこう感想を述べました。
「奇数ですから。やつらは皆こうですよ」
 私はわけがわからずに問い返しました。
「そうか。気づきませんでしたか、あなたの隣は一方が私、六号で、もう一方が二号と四号ですよ。われわれ偶数はこちら側にかたまっている、なぜって、ほら、あいつら奇数ときたら、皆が皆、そろいも揃って、厚顔無恥で喧嘩腰だ。なので、われわれ穏健な文化人とは……」
「ですが、それをどうご説明に?」
「どう? そうですね、おそらく、心には固有のリズム、意思の交替があるのでしょう、それは愛の弁証法のようなもので、テーゼからアンチテーゼ、無礼者からあなたや私のような穏健派へと交替していくのですよ」(113ページ)

 この「元カレ」たちを示す「被忘却者」という言葉がちょっとツボ。
 「支線」は列車の中で居眠りをしていた男が架空の都市をさまよう話で、本書の中では一番幻想味が濃い。夢の話なので一貫性などは皆無、雰囲気は茫漠としつつも重苦しくて、男は立ち寄ったあらゆる街角、あらゆる建物で、奇奇怪怪な講義やアイテムに出会う。かつてスーパーファミコンで出た名作RPG『マザー2』には、大都市の裏側にある夢の街「ムーンサイド」が登場するが、あの街が好きな人はこの短編も好きかもしれない。
 最も短く最も読みやすい「噛めない肘」は、なんとかして自分の肘に噛み付こうという妙な情熱にとりつかれた男の話。肘を噛むことを生涯の目標とする狂人の姿が、雑誌に取り上げられたり、流行の哲学者がコメントをつけたりしたことで、社会全体の注目の的になっていく。諧謔に満ちた掌編で、とっつきにくい「支線」のあとに読むとちょうどよい癒しになる。