書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

フリッツ・カーター『愛するとき死ぬとき』

 ドイツ現代戯曲選、これで26冊目。

愛するとき死ぬとき (ドイツ現代戯曲選30)

愛するとき死ぬとき (ドイツ現代戯曲選30)

砂糖に注ぐ紅茶をもっとくれ(29ページ)

 主人公「俺」が多数の友人や恋人との関係を中心に青年時代の模様を独白する「ある青春/合唱」、ペーターとラルフの兄弟とその家族、教師や友人たちの人間模様が演じられる「古い映画/グループ」、妻子ある男の異郷での恋愛潭「ある愛/二人の人間」の三部からなる戯曲。いずれも東ドイツ社会主義体制を背景にしている。

 この叢書の例によって、いわゆる戯曲らしくない体裁のテクストである。たとえば第一部「ある青春/合唱」では短い段落ごとに場面が次々転換し、また発話者の表記がなく「俺」の独白がずっと続く。戯曲というより小説といったほうがしっくりくるくらいだ。また第三部「ある愛/二人の人間」も、男と女との対話はあるものの、やはり小説の感触だ。「〜と彼女は言った」「彼は〜を見つけた」というような文章があちこちに出てくるし、またト書きと台詞を区別する記号もない。第二部はそれらに比べると多少は戯曲らしい姿をしているが、これまたト書きであるはずの場所に人物の心中独白が出てくるなど、やっぱり普通ではない。ちなみに全篇にわたって、句読点やかぎ括弧、クエスチョンマークなどの符号はひとつもつけられていない。
 というわけで、なんだか小説のように読んでしまった。舞台にかけるとき、演出家には多彩な選択肢が与えられるだろう(ちなみに作者カーターは別名で演出家としても活躍しているらしいとのこと)。
 まあ、その小説みたいな体裁のおかげで、この叢書の中の作品としては、中身はわりとつかみやすかった。句読点のない読みにくさはあるものの、シンプルな叙述と心情独白の多さのために場面も人物の内面も見て取りやすい。第一部と第二部はともに青春時代を扱っている(私の嫌いな題材!)が、単純で乾いた語り口、そこここに散りばめられたユーモアのおかげで、青春ものにありがちな嫌味を感じずに楽しく読めた。