書物を積む者はやがて人生を積むだろう

和書を積んだり漢籍を積んだり和ゲーを積んだり洋ゲーを積んだり、蛇や魚を撫でたりする。

ジョージ・メレディス『エゴイスト』全二巻

 久しぶりのヴィクトリア朝イギリス小説。

エゴイスト〈上〉 (岩波文庫)

エゴイスト〈上〉 (岩波文庫)

エゴイスト〈下〉 (岩波文庫)

エゴイスト〈下〉 (岩波文庫)

 それからもう一つ、病身の紳士の話で、人間性の機微にふれたのを話した。その紳士の細君がたまたま重態になった。と紳士は、病室の外に集まって相談をかわしていた医師たちのもとに行くと、涙を浮かべて、一生のお願いだから何とか私のためにあわれな妻を助けてほしいと哀願してこういった。「妻は私にとってすべてです。ほんとうにすべてです。もし妻に死なれれば、私は再婚の危険をおかさねばなりません。再婚せねばならんのです、なにぶんにも妻の、かゆいところに手のとどくような世話になれてしまったものですから。どうしたって妻をなくす、なくすわけにはゆかないのです! ぜひ助けてやって下さい!」そういってこの、どこの献身的な細君にとっても最愛のといえるご亭主は、両手をねじり合わせた、というのだ。
「ところでクレアラ、こういうのをエゴイストというのだ」サー・ウィロビーは言葉を添えた。「完全なエゴイストさ。そうとしかいいようはない――細君こそいい面の皮さ! 本人はこの上ない自分勝手をさらけ出していることにぜんぜん気づいていない!(上巻、169ページ)

 家柄も財産も美貌も持ち合わせたサー・ウィロビー・パタンは、最初コンスタンシア・ダラムと婚約するが、彼女はやがてオクスフォード大尉のもとに去る。ウィロビーは外遊ののち今度はクレアラ・ミドルトンと婚約するが、ウィロビーの中に強いエゴイストの気質を見たクレアラは、彼への愛情を失い、ウィロビーの従兄で生真面目な学者ヴァーノンに心ひかれるようになる。なかなか離してくれないウィロビーと世間の因襲を相手に、クレアラは婚約から逃れるべく苦悩する。

 イギリスの近代小説を読むのも久しぶりだけれど、これほど本格的な心理小説、性格小説を読んだのもずいぶん久しぶりな気がする。舞台はウィロビー・パタンの屋敷とその周辺に限られ、人物も分量のわりにさほど多くない。話の内容はといえば、大半はウィロビーのもとから逃げたいと思うクレアラと、それを許さないウィロビーとの心理的な対決、ほぼこれだけである。文体は晦渋で、奇矯な表現がお好みらしく、読むのにはけっこう、骨が折れる。
 それでも面白い。
 なにが面白いって、やっぱりウィロビーのキャラクターだろう。美男で貴族でお金持ち、頭は悪くないのに自分のエゴイスト気質にはまったく気づいておらず、なぜ女に振られるのかまったく分かっていない。あとになればなるほどエゴイズムをさらけだして、自分からヒロインの愛情を失っていく(それでも本人は気づかない)。おまけにこの男、妄想癖があって、肘鉄を食らった後には自分に都合のいい場面展開を想像してにやにやしている。そのおかしいこと。
 もちろん、クレアラをはじめ、ウィロビーの幼馴染リチシアや、友達のド・クレイなど、ウィロビー以外の人物も性格がはっきり描かれている。だからこそウィロビーのやや極端なキャラクターも引き立つのだろう。クレアラとの破局が確定的になりつつあったウィロビーが、かねてから彼の崇拝者だったリチシアに迫るものの、やはり肘鉄を食らう第四十章のやり取りはなかなかいい。ここに限らず、キャラの対話シーンはどこもここも緊張感があって読ませる。
 最後に、この本を手に取るきっかけになった、サマセット・モームツンデレな批評をのせておく。

彼の気どりは、よんでいてはなはだ退屈である。彼は、平明な事柄をわかりやすく述べることは不可能に近い、と考えていたのではないか。また、彼の機知は、作者自身はひどく得意らしいが、不自然きわまるものではないか、と読者はお思いのことであろう。だが、彼は、一読とうてい忘れることのできない、生気にみちあふれた人物を想像する天賦の才にめぐまれていた。(……)これこそほんとうの意味での創作物なのであって、真の小説家でなければ、作り出すことはできなかったであろう。(『読書案内』、22ページ)